Hey guys!
日本の裏側ブラジルに旅を敢行したKAKELU(@rising_blue94)です☆
(引用元:Brasil Tips)
いきなりですが、あなたは100年以上前にブラジルに多くの日本人が移住したことを知っていますか?
私は日本人の移民がブラジルにいることは知っていましたが、なぜ移住したのかは分かりませんでした。
また、歴史は苦手な方で、博物館や資料館なんて自ら行こうと思わない主義。
こんな私でも、薄っすら思ってることがありました。
それは、なぜ日本の裏側に移住する必要があったのか?何のためにブラジルに向かったのか?
そんな漠然とした疑問を持っていた時、ブラジルで知り合った日本人女性が、「日本移民資料館は本当にオススメらしいよ!一緒に行こう!」とお誘いしてくれたので、ノコノコついていくことにしました。
そこで、今回はブラジルのサンパウロにある日本移民資料館に訪れた感想をお伝えします!!!
サンパウロにある日本移民資料館に行ってきた

サンパウロ「日本移民資料館」の詳細
(引用元:excite blog)
日本移民資料館は、メトロではサォン・ジョアキン駅が最寄りになります。
また、リベルダーデ駅からも近いです。
この周辺には安くて、安全なゲストハウスも多いので一泊するのも良かですね。
住所:Rua São Joaquim 381, Liberdade
営業時間:火曜日〜日曜日 13:30~17:00 (月曜日休館)
Tel : (11)3209-5465
Mail : museu@bunkyo.org.br
日本移民資料館をポルトガル語で「Museu da Imigração Japonesa」と言います
入館料
大人:16,00レアル(約480円)
学生証:8レアル(約240円)※ 要学生証
子ども(5歳〜11歳):8レアル(約240円)
ブラジル国籍者(60歳以上):8レアル(約240円)
サンパウロ「日本移民資料館」に突入してみた
日本移民資料館で支払いを終え、早速脳みそに栄養(新しい知識)を与えることに。
同行した日本人女性を置いていき、単独行動をしました。
以下からは、写真で撮った資料らを見ながら、私のコメントでお楽しみ下さい。

日本移民とアマゾンの開発日本人移民はアマゾナス州の未知の世界に挑み克服した。充分に訓練された人的資源と綿密な調査により、ジュート(黄麻)栽培を展開し地域経済の柱となった。(日本移民資料館の看板)

日本人の海外移住日本人が海外移住したのは、ハワイ諸島が初めです。それは明治元年(1867年)のことでした。その後、1888年ごろからはアメリカ本国へ、また、1899年にはペルーへの移住が始まりました。日本からは一番遠い国、ブラジルへの移住が開始されたのは、1908年のことでした。
日本人がブラジルの経済を支えた

レジストロでブラジルの茶産業が蘇ったブラジルのお茶の歴史は古い。1812年、中国から持ち込まれたものを起源とする。その栽培はブラジル各州に広がり、ヨーロッパへ輸出するに至った。しかしながら、19世紀半ば頃から衰退して行き、殆どが消滅状態になった。しかしその後、日本移民がレジストロ地域に入植し、お茶の栽培を手掛けたことによって、特に1930年代以降には、ブラジルのお茶の生産が蘇ることになった。
※調査によると、2009年から2013年にかけての茶の消費量は毎年平均16%増加している。現在では毎年3000トンもの茶葉が消費されている。売上げ及び販売量は増加傾向であり、販売は世界平均の12%UP、価格は25%UPである。その一方で、一人当たりの茶の消費量は年間たったの8.5杯で、52か国の中で最下位に当たる。


1930年代に日本移民は、ブラジルの各州に分散していました。遠くは北のアマゾナス、バラー州の辺境、マット・グロッソを経てミナス・ジェライス、リオ・デ・ジャネイロ、サンパウロ、パラナ各州、そしてリオ・グランデ・ド・スル州の果てにまで広がっていました。その中でも、サンパウロ州には最も多くの移民が集中しました。その意味では、サンパウロ州とその周辺地方は特殊な位置を占めることになります。(中略)サンパウロ州を中心として経済、文化、育、スポーツ関連などの団体が次々と現れ、やがてそれらは、徐々に大きな組織に成長しつつ発展し、移民の歴史の中に刻まれていくことになります。(中略)やや、大げさかもしれませんが30年代のサンパウロ市は日本民にとっての非公式の首都であったと言っても過言ではないでしょう。疑問をお持ちの方は、その辺りをご自身の目で確かめられることをお勧めいたします。
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ブラジルで日本人は活躍の幅を広げていった

1933年頃、サンパウロ市内には日本人の経営する商店が159軒ありました。農産物の売買、お菓子屋、日用雑貨、ホテル、軽食堂、八百屋、運送店、クリーニング店、その他多岐に亘る分野で、商業活動が行われていました。(中略)この頃最も数が多く、目立ったのはクリーニング店でした。よく繁盛した結果、当時は洗濯屋と言えば日本人を連想させるほどの存在になりました。(中略)この10年間に起きた特筆すべき出来事は、日本人農家向けの融資を目的とした銀行業務のカーザ・バンガリア 東山(1933年)、南米銀行の前身であるカーザ・バンガリア・ブラタク(1935年)、そしてカーザ・バンガリア・カイコー・KKKK(1937年)などが創業開始したことでした。これらの日系金融機関出現のおかげで、日本人移民は容易に融資を受けられるようになったのです。

日本のクリーニング需要は世界でもナンバー・1という。日本経済はバブル崩壊後、衰退していると言われているのだが、それでも世界一、日本人はクリーニングをたくさん出してくれるのである」
日本人は諸外国と比較して、大変清潔好きな国民であることが挙げられる。ほとんどの家庭に洗濯機が配備され、毎日洗濯が行われている。家庭用洗濯機は世界一の高性能を誇り、他の国にはない機能がいっぱい付いている(「ドライマーク」などという、誠にありがたくない機能まで付いている)。基本的に「ものを洗う」という気持ちが他の国の人よりも強いことが、クリーニングをより多く利用する原動力になっているようにも感じられる
また、沖縄を除く日本の全地域では、水道水が洗濯に適した軟水であり、井戸水もたいていが軟水である。こういう国は他にはあまり見当たらない。水に恵まれていることも洗濯の条件としては大きい。」

大部分の日本人移民は、お金を稼いで故郷へ帰ることを望んでいました。日本へ帰った時、子供たちが日本の子供たちに負けない様、日本的な教育、特に国語を積極的に教えようとしました。そのため、日本の国語と文化を教え、日本精神を伝承する特殊な学校が必要になりました。(中略)1930年代にはブラジル全国で400校もの学校があり、その大部分が移民国体関連の協会によって運営されていました。

【まとめ】歴史が嫌いな私でも日本移民資料館をシンプルに楽しめた
気づけば日本移民資料館に入り浸って滞在した時間は2時間以上!
歴史嫌いな私がここまで博物館や資料館に熱中できたのは初めてです。快挙です。
それも驚くことではありません。
この記事では紹介しませんでしたが、日本人がどんな思いでブラジルに移住してきたのか、心が痛くなるような差別との戦い、悲しい悲劇を乗り越えた日本人の強さなどを日本移民資料館で学ぶことができました。
同じ日本人が幾千もの困難を乗り越えて、ブラジルで歴史をつくった出来事を目の当たりにして夢中にならないはずがないのです。
なので普段、博物館や資料館に訪れない人も「日本移民資料館」には騙されたと思って行ってみてください。
歴史嫌いで有名な私でも楽しめたし、頭にすんなり入ってきました。
では、この記事はここで終わりです。
日本移民資料館で頭をフル回転させた後は、すき家で脳に栄養を与えましょう。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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